「はらだしき村」を帰りの電車の中で読む。
東横線は座れるように、わざと快速を外して乗る。
ソウウツで苦しむ原田宗典氏は、それでも文章では快活で繊細な人間になっている。文字で物を作る才能というものは、たまらなくうらやましい。

今日はJavaでのプログラミングを自力で何とか理解出来た。
自分じゃとても思いつかないが。この先どうしたら良いんだろう。

最近、地味にノイローゼである。
気がつけば階段からふらりと落ちたくなる。
それでもぐっと思いとどまる。
今こうして文章を綴っている自分は、「元の私」だ。
会社にいる時の私は、明らかにノイローゼで、
頭がズキズキと痛み、それを引きずって家に戻るので、
どうしようもない。「ノイローゼの私」は処置におえない。
人に噛み付き、傷つき、ボロボロである。
五感がこれ以上の刺激は要らないと叫ぶのに、
情報の嵐が自分を襲う。

過去の私は砂山が風で崩れるような、脆い塊で、
無かったような錯覚すらする。
今が私の成長期で、生々しく人とぶつかり、
失敗しては落ち込む。
会社に入ってまでこんなに悩むとは。
世界が足元から崩れていくような不安を毎日、毎分、毎秒感じながら生きるのは容易いことではない。
だから、私はずっと薬の世話になるのだろう。

もう何年もWEBに日記を綴ってきたはずなのだが、今が一番そこから遠ざかっている。人に文章を見せることすら、今の私には苦痛になりつつある。見せる=恥さらし、とすら感じる。あくまで自分に限定して、だが。

それでも、中学生が自分のリストカットの画像を「今日の手首」なんて言ってのっけているのを見ると、寒気がする。この子は大丈夫なのか、と。鮮血が手首からぷっくりと浮いているのをWEBに流して、この子は自分の寂しさを埋めているのだろうか。ネットのデメリットを、心が強くない子はもろに受けてしまう気がする。中学生、という年齢でネットにPC変換で自分の心情を綴る癖がついてしまうことを、私は一概に良いとは思えない。「自分だけではない」ということが、後ろ向きに作用している気がするから。

明日もまた泣くんだろうか。
ナレッジ・マネジメントのように、ひたすら他人の技術を盗む毎日・・・。

たまには誰かに甘えたくもなる。
そりゃあ、帰ってきて、今日もお疲れさま、と言い合える誰かがいたら、面倒くさいけれど、とても愛おしいと思うだろう。間違いなく思うだろう。前の恋人とビールを酌み交わしていた日々が、痛みとともに思い出されて、懐かしくもある。

「はらだしき村」の、「今を生きる」の項を思い出して、今日一日を生きることに必死になろう、と、決めて、寝る・・・。